PROFILE
1986年、東京都生まれ。2008年に慶応大学法学部卒業後、アナウンサーとしてテレビ朝日に入社。『ミュージックステーション』『やべっちF.C.』『報道ステーション』などを担当し、2019年に退社。現在はタレントとして活動。退職後は、夫の勤務地である静岡での暮らしをスタートさせ、2021年に第1子である男の子、2023年には第2子となる女の子を出産。現在はバラエティ番組やラジオ、スポーツ番組などさまざまな分野で活躍している。静岡に移住後、Instagramに育児漫画・エッセイを投稿。この内容をまとめた『なんとかなるさ!ヨシエのとほほ、くすくす日和』を2024年10月上梓した。
はじめて立つことを覚えた瞬間。無意識に一歩踏み出す。呼吸するように当たり前に「歩く」ことを覚えたのは、いつのことだっただろう。フィールドを超え、自らの道を切り拓く人たちが「歩く」ことで出逢う感覚や景色を探る本連載。第14回目でお話を伺うのは、静岡と東京という2つの拠点を行き来しながら、タレント、そして母親として育児とキャリアを両立し、自らの道を切り拓く竹内由恵さん。テレビ局のアナウンサーとしてキャリアを積んだ11年を経て東京から静岡へ。現在は珈琲豆の焙煎を独学で習得し、枠組みにとらわれず柔軟に活躍の場を広げる竹内さんは、今ここに至るまで、どのような道を歩んできたのか。そして今なお歩みを止めることなく踏み出す一歩の先に、どんな景色を思い描いているのか、お話を聞いた。
さまざまな人がいて、みんな違う
多様性に富んだ環境で過ごした幼少期
報道番組や音楽番組、スポーツ番組、料理番組にバラエティ番組まで……。多様なジャンルを軽やかにこなし、日本語のみならず英語も流暢に使いこなす。やわらかく丁寧に紡がれる言葉の節々には、穏やかで誠実な竹内さんの人柄を感じさせる。彼女はここに至るまでに、どのような道を辿ってきたのだろう。テレビに映っていない彼女自身は、どのような想いを胸に活動してきたのだろう。テレビ局で働いていた頃、よく通っていたというカフェで待ち合わせ、広尾の商店街を抜けて有栖川公園へ。季節の変わり目の気配を感じる夏の終わり、竹内さんがアナウンサーに至る前のお話から伺っていった。
はじめから堂々と人前に立つことが好きだったわけではなかったという幼少期、彼女のパーソナリティにひとつの影響を与えたのが、10歳の頃家族で訪れたアメリカでの体験だった。
「子どもの頃、アトピーがひどくて、自分が他の人と違うことがとても気になっていたんです。気持ちが塞ぎ込んでしまって、下を向いて歩いているような感じだったんです」
「そんな中、アメリカに行ってみたら、自分の肌が気にならないくらい、さまざまな人がいてみんな違ったんですね。ABCDも言えないような、言語もほぼできない状態での渡米だったのですが、それがすごくうれしくて結構伸び伸びと過ごしました。誰にどう思われるかということを、自然と気にしないで過ごせる環境だったことが大きかったと思います」
自分が想像できない世界に惹かれて
アナウンサーの道へ
その後、中学3年生までアメリカやスイス、イギリスに渡り高校受験を機に帰国。学生時代は「将来〇〇になりたい」という遠くの目標よりも、まずは目の前にあること、身近なところで目標を立て、達成することを大事にしていたという竹内さん。
「学生当時は『(将来)〇〇になりたい』というようなことは、そんなに意識していませんでした。海外に住んでいたので英語を活かせる仕事であればとは思っていましたが、毎回身近な目標に向かって進んでいるという感じだったんですね。アメリカに住んでいる間は英語を上達することがひとつの目標で、後半は高校受験。受験勉強は結構好きで、与えられた目標に向かってベストを尽くすということが得意だったので、ひたすら近くの目標に向かって取り組む学生時代を過ごしました。今思えば学生のうちから起業するとか働くとか、いろいろやっておけば良かったな、なんて思います」
帰国子女として国外での経験を活かした仕事など数多の選択肢もあることに加え、大学卒業後、再び留学するという選択をする人も少なくない。そして同時に、アナウンサーという職業も誰もが就ける職業ではないが、竹内さんは大学卒業後、すぐにテレビ朝日に入社することになる。それは同時に、自分が好きなものに気付いた瞬間だった。
「就職活動を始めた時期に偶然『アナウンサーセミナー』というものを見つけて。そもそもそんなにテレビを見る人ではなかったので、アナウンサーのお仕事もあまり意識していなかったのですが、『まぁ受けてみるか』くらいの感じで受けてみたら、とても面白かったんですね。人前に立って物事を伝えたり表現することが好きだと気がつくと同時に、自分が想像できないような、それまでの自分とはまったく違う世界、未来が広がっているような気がして、心から『あ、これワクワクするな』と感じました。そこからは絶対受かるぞという気持ちで就職活動や面接などを経て、アナウンサーになったという感じです」
人に認められるためにどうするか。
「人が求めるもの」を追い求めていた20代
煌びやかな世界の裏側で、厳しい側面も併せもつテレビ局でのアナウンサーの仕事。早朝から深夜までかかる収録スケジュールに加え、多種多様な人たちとの会話を巧みに繋ぎながら、日々のお茶の間に親しまれる「顔」として人前に立ち続ける。周りから見たら順風満帆に見える彼女の足取りには、表向きには見えない試行錯誤があった。
「アナウンサーは人前に立つ仕事だからこそ、人からどう見られているのか、どう評価されるかということがすごく気になる仕事だと思います。とくに入社後最初の1-2年は自分の中ではパッとせず、新しい仕事が増えることもあまりなく少し焦っていました。自分自身この仕事をずっと続ける訳ではないだろうなということは薄々感じていたのですが、だとすると辞めたときに『あの人、アナウンサーとしてなにしてたっけ?』と言われることだけは避けたいとあるとき思ったんですね。そこからは『できることは全力で取り組むぞ』と自分から現場に行ってアピールするようになりました」
「当時はとにかく人に認められるためにどうするかということをベースに動いていたので、『自分が本当に何をしたいのか』というよりも『誰かが求めているものに向かっている』という感じ。誰かが就きたい仕事、“みんな”が目指すような仕事を目標にして『誰かがやりたいことを自分も目指す』というのが20代だったと思います。実績として認められたり、人から評価される上では必要なことだったと思うので、20代のうちに積み重ねることができたことは、悪くはなかったかなと思うのですが、今思えば『自分が何をしたいか』『自分はこういうことが好きだから、これをどんどん磨いていきたい』と突き詰めてその先へと向かっている人も世の中には結構いる。アナウンサー時代にはそれが出来ていなかったので、次に自分が目指していきたいところだなと思っています」
仕事を離れ、東京から静岡へ。
知り合いもいない地でのスタート
そんな竹内さんに、大きな転機が訪れる。アナウンサーになり11年。結婚を機に、テレビ局に勤めた日から止まることなくはたらいてきた仕事を辞め、パートナーの地元である静岡へ移住をすることになったのだ。その背景にはアナウンサーという仕事を続けることで感じてきた心境の変化があった。
「それまで『人が求めるもの』をずっと追い求めているような感じだったので、どこか常に疲れていたんですね。そうしたこともあり(環境を)少し変えたいという意識はあったと思います。自分の中のすべてを仕事が占めていた20代後半、『子どもも欲しいな』『結婚も良いな』と思うようになってきた時に、今の夫と出会いました。それで、静岡に行くという思いがけないお話が来たので、『それも面白いかもな』と。まったく違う世界、未来が見えない感じにワクワクして、やってみようということで静岡に移住することにしました」
今まで接点がなかったという静岡という土地での生活。仕事を辞めたことに加え、慣れ親しんだ土地を離れ、知らない土地に住むというライフスタイルの変化も、持ち前の柔軟さで最初は観光気分で楽しんでいたという竹内さん。しかし程なくして、仕事に復帰。移住を経て、彼女独自の、新たな道を切り拓いていくことになる。
「静岡に拠点を移した後、最初は観光気分でいろいろなカフェへ行ったり、散歩をしたりと楽しかったのですが、2-3カ月くらいすると落ち着いてきて(笑)。移住してからは仕事も辞め、静岡に知り合いもいないので、1日やることもなく話し相手もいない。夫が帰るまでひたすら待つといった感じで、それがきつくなってきたんです。それも先行きが見えない......というときに、自分の今までの経験を活かせる仕事をひとまずやれるというお話があり、そこからスタートしようと。『自分は仕事をしないとダメな人間なんだ』ということがわかったので、フリーという立場で、まずはアナウンサー業を始めることにしました」
人と比べなくていい。
「自分はこうしたい」に集中できる場所
今は静岡と東京を行き来する生活を送る。行き来する頻度はさまざま。毎日往復する週もあれば、週に1-2日のことも。片道2時間ほどの距離を毎日往復することは、竹内さんにとって負担ではないのだろうか。
「1時間半~2時間くらい新幹線に乗っている時間があり、その間に仕事ができて意外と良いな、と感じています。便が少なくて1時間に1本くらいなので、常に帰る時間を気にしながら仕事するのは大変ですし、子どもが体調を崩して迎えに行かなくてはいけない時も、すぐには帰れないということも現実的にはあるので、そういった不便さはもちろんあるのですけれど」
そして二つの土地を行き来することで浮き彫りになってきたのは、静岡で過ごす時間の心地よさだった。竹内さんにとって、今ではどちらもなくてはならない大切な拠点になっている。
「やっぱり東京では人が多い分、どうしても人と自分を比べてしまう。そうすると『ああいう服買わなきゃ』『もっと自分を素敵にしなきゃ』と、いろいろ考えてしまうのですが、静岡に戻ると本当にガラッと空気が変わるので、ほっと落ち着ける。ほぼ考えなくて良いという状況が、それこそ海外と似ているなと思います。静岡にいると人と自分を比べるのではなく、『自分はこうしたい』ということだけに集中できる。気持ちを切り替えるきっかけになっていると思います」
異なる考え方の中で、根気強く話す。
子育てとともに夫婦で協力しながら
2021年、第1子を出産。現在は2児の母として、仕事と育児を両立する。朝は3時半か4時には起床。子どもを保育園に送り出す支度をするまでの、限られた時間を自分の仕事に当てるのが日課だ。子どもと過ごすひととき、働くひとときは、竹内さんにとってどのような時間なのだろうか。二つを両立する上で、心掛けていることはあるのだろうか。
「仕事と育児はなるべく切り離したいので、子どもといる時間はそこに集中しようと意識しています。でもうちの子どもは『かまってくれ』が強いというか、わんぱくで(笑)。子どもが起きている間、一緒にいる時間は絶対に仕事はできないと割り切っています。その代わり、子どもが起きる前の早朝に起きて、そこから一とおり自分がしたい仕事をカチャカチャとやる。その後に朝ご飯の準備や夕食の下準備をしています。一とおり終えた後に子どもが起きてくる。それがとてもちょうど良くて、『やることやった朝』というような感じがするので、今は気に入っていますね」
仕事と育児の両立は、容易いものではない。竹内さん本人の努力はもちろんのこと、家族の理解や周りのサポートがなくては成り立たない。仕事に復帰し、子どもが産まれてからは、夫婦間で考え方の違いからぶつかることもあったという。
「結婚して、夫婦で協力しながらやっているのですが、最初はそれぞれ考え方も異なっていて。夫は『もう少し子どもといてほしい』、私は『仕事は諦めたくない』と、ぶつかる時期もありましたが、それを押し通さず、根気強く話して、話して。最近ようやく『物価高もあるから、夫婦二人揃って働いているほうがなにかといいよね』『二人で協力しながらやるのが子育てだよね』というふうに夫も協力的なので、育児と仕事の両立も以前よりも前向きにしやすくなったなと。でも夫も結構忙しいので両親にお願いしたり、ベビーシッターさんにもお願いしていて。ベビーシッター文化って東京は珍しくないと思うのですが、静岡はあまり数が多くないので、本当に『この人にお願いできなかったら困る!』という人がいるんです。その人にはもう常にこちらのことを好いていてもらいたいというような気持ち。本当に命綱という感じですね(笑)」
達成できる課題がたくさんある
悩む時間がないくらい、今が楽しい
「大変」という言葉をほとんど口にはしないことに驚く。一人の女性として、一人の母親として、一人のアナウンサーとして。今もなお活動の領域を広げながらさまざまな顔をもつ彼女は、その活動ひとつひとつに真剣に丁寧に向き合う。この場所に来るまでにどれほど大変だったのかと聞きたくなってしまうが、竹内さんが常にポジティブで前向きな姿勢でいられる理由はなんなのだろう。
「子どもができてからの方が忙しいじゃないですか。仕事をしていたら尚更、正直悩む時間がないくらい忙しい。周りの人から見たら、子どもが生まれる前の方が実績を伸ばしていたように見えるかもしれない。けれど、自分のなかで達成できていることは、実は子どもが生まれた後の方が、多くなっているんですよね」
「子育てもこなしつつ仕事もしていると、ちょっと何かができただけでも、すごく頑張ったと思える。自分のなかでの達成感のようなものは昔より大きくなったなと思います。アナウンサーの仕事も、30歳を過ぎてできることがある程度わかってくると、乗り越えることが簡単になっていく。でもそこに育児が追加されることで難易度も上がるので、むしろ楽しくなるというところはあると思いますね」
自分で一から考える。
自分の力で、積み上げていく
今新たに挑戦しているのは、静岡に移住後、一から始めた珈琲豆の焙煎だ。育児に向き合う知り合いや友人たちの「珈琲を飲む時間が一番の癒し」という言葉を胸に、テレビ局に勤めていた当時から好きだった珈琲をいつか仕事にできたらと、育児と仕事の合間を縫ってコツコツと続けてきた。
「私自身にとっても、珈琲を飲む時間は癒しのひととき。やっぱり子育てをしていると、その一杯を飲む時間がすごく贅沢だったりするじゃないですか。珈琲豆ってそういう時間を届けられる存在なのではないかと思っています」
「珈琲豆には本当にいろいろな焼き方があって。生豆自体の品質や美味しさも大事なのですが、焼く人によって、味も香りも全然変わるんですよね。焙煎士の人が言うには『豆と対話しながら火を入れるんだよ』と。職人のような人たちがたくさんいる世界で、そういう方々に教えてもらいながら、今焙煎も学んでいるのですが、香りを嗅ぎながら、『あ、今このタイミングで火を少し強めよう』などと日々試行錯誤しています」
少し先の未来に向けて竹内さんが見据えているのは、珈琲の事業をさらに広げていくこと。珈琲豆に向き合い、焙煎を学ぶことから始め、時間を見つけては自分独自の香りを引き出すタイミングを見極める。そしてそれをどう届けていくのか。多くの方に届けるための事業展開を見据え、ブランディングや経営についても勉強中だ。
「パッケージを自分で考えてデザイナーさんに発注し、値段を付けてお客さんに販売していく。アナウンサーのときはビジネスに携わってこなかったので、焙煎のみならず、そうした物を売っていく事業としての側面にもすごく興味があるんです。戦略を立て、どうしたら良いお店ができるのかと考える。これまで触れてこなかった世界なのでとても面白くて、ワクワクしながら勉強しています」
「これまでのアナウンサーとしての実績というのは、人に与えてもらったポジションの中できちんとそれをこなして叶ったこと。あまり自分で積み上げてきたという感じもせず、人から与えてもらったという感覚がすごくあったんです。でも今は、一から自分で考え、自分の力で取り組めている。もちろん人に相談しながらですが、『自分がこうしたいからこうする』ということができていると感じています。これまでExcelとか触ったことがなかったのですが、Excelで経費計算してこれぐらいになるかなというような、はじめて取り組むことがとても多いです(笑)。珈琲豆はアフリカや南米に直接生豆を買い付けに行くことも夢の一つになっています。英語もずっと使っていなかったのですが、現地で農家さんとコミュニケーションをとっていきたい。そうしたことを妄想して広げていけるのが楽しいですね」
そしてもちろん、アナウンサーの仕事も続けていきたいと思っている。10年以上経ってもなお、その道を楽しく歩んでいきたい。続けていける秘訣はなんなのだろう。
「アナウンサーの仕事をしていると、宇宙ビジネスについての進行をしてください、というような自分がさほど関心を寄せてこなかった分野、知識がない話題について振られたりするのですが、それを調べていくと見えていた世界がとても広がっていくんですよね。アナウンサーって内に篭らずにいられる仕事。そこもひとつ、続けていける理由なのかなと思います」
Hair&Make-up: Masako Toyota (dynamic)
Photo: Akari Yagura
Edit+Text: Moe Nishiyama
衣装:
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