PROFILE
川原 隆邦
1981年、富山県生まれ。日本の伝統的工芸品に指定される越中和紙のひとつ「蛭谷和紙」の唯一の継承者。2003年に最後の職人だった米丘寅吉さんに師事し、川原製作所を開設。工芸品、アートとしての和紙づくりにも精力的に取り組み、近年の代表作に、東京虎ノ門グローバルスクエアの壁面作品がある。
はじめて立つことを覚えた瞬間。無意識に一歩踏み出す。呼吸するように当たり前に「歩く」ことを覚えたのは、いつのことだっただろう。フィールドを超え、自らの道を切り拓く人たちが「歩く」ことで出逢う感覚や景色を探る本連載。第15回目でお話を伺うのは、400年前に生まれた「蛭谷(びるだん)和紙」を受け継ぐ唯一の継承者であり、和紙の概念を拡張するように独自の道を切り拓く川原隆邦さん。20代で蛭谷和紙に出会い、口伝によりその技術を継承、独自の方法でその道を切り拓いてきた。蛭谷和紙の原料となる植物を育てることから始める川原さんの和紙づくりは、単に伝統を守ることにとどまらない。建築家や企業、人々との多様なコラボレーション、さらにさまざまな土地を巡り、土地ごとに得られる原料をもとに和紙を制作するなど今までの型を破っていくような新たな和紙の表現を模索してきた。産地に縛られない和紙づくりから垣間見える少し先の未来のお話も含めて、川原さんの歩みについてお話を聞いた。
目の前で紙が作られていく。
きっかけは純粋な驚きから
高校を卒業すると同時に、両親の引っ越しに伴い千葉県から富山県へ。社会人サッカーにも励み、サッカー一筋だったという川原さんが地元で長く続く仕事に関わりたいと職場を探していた矢先、偶然出会ったのが後の師匠となる蛭谷和紙の継承者であり伝統工芸師、故・米丘寅吉さんだった。当時、川原さん23歳、米丘さん83歳。すでに現役を引退していた米丘さんの下で、和紙づくりへの一歩を踏み出した。
「元々富山県の端っこ、朝日町というところに住んでいたのですが、たまたま問い合わせて隣町を訪ねたら、そこにいたのが米丘さんでした。普通の家で普通のおじいさんが『紙を作っている』と話を聞いて。実際その人の行動を見ていたら、確かに紙ができていくんですよ。そんな光景を目の当たりにしてしまうと『うわ、すごいな、これ』と驚かざるを得ませんでした。高みを目指したり、和紙で何かをやっていこうと思った訳ではなくて、ただただ驚きで始めてしまったというところが大きいと思います」
「米丘さんはすでに現役から引退されていたので、実際に師匠が和紙を作る姿はほとんど見たことがありません。技術的なものはほとんど教わっていないんです。『もう見せられないから自分で考えてやれ』と、後ろに座って見られていた。そこから右も左もわからないままに、自分で考えながら作ったり、聞きながら作ったり。師匠が現役を辞めて2~3年経っていたので、もう一度畑を作るところを一緒に見せてもらい、『こうしなくてはいけない』ではなく、『作ることができれば良い』という発想で、やってダメなら聞いてくれではなく、『やってダメなら一緒に考えよう』と、ずっと言われていました。すでに和紙づくりを辞めていた人から教わっていた、ということは今の自分の姿勢に大きく繋がっていると感じています」
良いものでも売れない。
苦境に立たされた20代
そこから米丘さんの跡を継ぎ、和紙づくりを始めた川原さんは、スタート早々、大きな壁に直面することになる。作れども、売れない。数々のコンクールやコンペティションで賞を受賞し、その確かな腕と表現力を認められるも、和紙は売れないまま。相談できる人もいない中、答えが見つからないという苦境に立たされた。
「蛭谷和紙は長く続いていたもの、だからこれから先も長く続くものだと本気で思っていたんです。伝統工芸自体が衰退し、もうピークはすぎて最後の一人が辞めていたことも知らず、師匠が歳を理由で辞めたのであれば自分が引き継げば問題ないじゃないかと。当時は20代前半で社会的知識も何もないので、『こういうものを作って売れるんだ』という意識があり、それをやっていけば売れるんだな、と考えていた。ところが、そこから作れども売れないという時期が始まりました。今となっては自己分析的な話ですが、そもそも紙が必要とされない時代になり始めていたということと、紙を売る商流をそもそも20代前半の人間が知っている訳もなく、社会に対する落とし込み方も知らなかったという2つの要素が大きな原因だったと思います」
「紙を必要としない時代に突入しつつある中、まず商流に乗せることができていないので、(自分の制作した和紙は)世の市場すら出回ってもいない。 でも、今までの人は皆和紙を作り、売れないながらになんとかやってきたのだから自分もできるはずだという思いがありました。時代の変化に気付いていなかったというのもあったと思います。それで『なんとかしなくては』という思いから、さまざまなコンペやコンクールに出品するんですよ。そうすると、ありがたいことにさまざまな賞をたくさんいただいたことで、なおさら迷走が始まります。『あれ?良いものだったら売れると皆言っていたのに何がいけないんだろう?』と」
「命の博物館」
富山市の動物園の職員へ
これ以上、和紙づくりを続けられないかもしれない。蛭谷和紙を引き継いで約10年。川原さんは、和紙づくりを辞めるという苦渋の決断をすることになる。
「あるとき『あ、もうこれはダメだな、これ以上は続けられないな』と。ただ、当時教えていただいた師匠の米丘さんがご存命の間は辞められないと思っていました。90歳近くにもなって、最後の最後に託した希望が、生きている間に辞めましたというのでは、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまうので、ご存命の間はとにかく 続けようと。亡くなられた際には 一旦身の引き際だなと思い、そこで和紙を作ることを一度辞めることにしました」
「なくなった伝統工芸を復活させたこともあるし、畳んだこともある人なんですよ。かつ新しい場所で工房づくりから始め、ゼロから和紙を作ってきた人でもあるんです。『川原さんって、和紙で成功してうまくいってますよね』とたまに言われることがあるのですが、十何年とずっと水面下で泥水をすすっていた期間があり、活動が軌道に乗り始めたのは本当にこの7~8年くらいの話。自分の中では成功したというよりも、たまたま博打が当たっただけという感覚がありますね」
その後、川原さんが向かった先は、富山市ファミリーパークという動物園だった。伝統工芸である和紙と動物園。一見すると全く繋がりのないそれら二つは「なぜ残さなくてはいけないのか?」と問われたらうまく答えることができないという点で、繋がっているように思えた。
「 『富山市ファミリーパーク』の園長・山本茂行さんにお声がけいただき、動物園で働くことになります。山本さんがまた全国の動物園水族館協会の会長を二期務めるなど名物のような方で、さまざまなことを教えてもらいました。例えば動物園の存続について考えたとき、伝統工芸と同じで『なぜ残さないといけないのか?』と問われるとうまく答えられない存在なんです。でも富山市ファミリーパークではその問いに対して、明確な答えを用意していました。動物園は種の保存をするための『命の博物館』であると。もちろん、子どもにキリンやゾウを見せたいと思った時、本来であればアフリカに行くなど現地で見られるのが一番良いのですが、そうすると百万円近くかかってしまう。動物園なら500円ほどで世界中のさまざまな動物を見ることができます。生きている『命の博物館』という定義づけをすることによって、動物園を子どもたちの未来に残し発展させていけるというお話を園長から聞いて、なるほどなと」
緑豊かな 自然の中で動物・里山・地域をテーマに「人も森も元気になる新しい里山づくり」を目指す富山市ファミリーパークで、川原さんは「里山」エリアを担当。里山整備や、人の営みと自然とが共存し、資源が循環する里山で、その一端を担う活動の一つとして、里山の中で楮(こうぞ)が作られ 和紙ができるまでを伝える ワークショップなどを行ってきた。動物園での活動が、のちに川原さんが和紙づくりを再開するきっかけとなる。
「富山市ファミリーパークでさまざまな活動をしていたら、今度は自分以外で情報を発信してくれる人たちが増えていきました。山本園長を筆頭に『今、和紙を作る面白いやつがいてさ!』と。そこで富山のガラス美術館の2階と3階の壁面を和紙で作ってほしいという依頼をいただいたんです。もう和紙の仕事からは身を引いているのに、入ってきたのが建築家・隈研吾さんの手掛ける美術館のお仕事。次にいただいたのが富山県民会館の全体のエントランスに作品を設置したいというお話でした。お話だけがどんどん飛躍していく。それで、和紙を辞めるのも続けるのも、自分がやるかやらないかを決めるだけの話だったんですね。『じゃあやってしまえば良いかな』と」
異分野間でのキャッチボールを通じて
教育やアート、文化のフィールドへ
自分自身が一人で発信していた当時は誰にも届かなかった声が、和紙づくりを離れてから数年、一人、また一人と川原さんについて、そして和紙について発信し、語ってくれる人たちが増えていった。気がつけばその輪は和紙の業界を超えて、まだ踏み込んだことのなかったフィールドへと広がっていった。
「不思議なもので、人は伝えると伝えてくれて、自分も足を運べばこちらに来てくれる。そして情報共有がうまくできるようになると、企業や建築家、アーティストの皆さんなど、実はそれぞれ小さな課題や問題を抱えていたりすることがわかってきます。最初に『紙を必要としない時代になっている』というお話をしたと思うのですが、その中でも必要としてくれる人はいるのだと。それまでは、おそらく周りの和紙を必要としてくれる人たちとキャッチボールができていない状態だったのだと気が付きました」
「自分がキャッチボールをしているのとは別の場所で、『そうそう、そういえば川原という面白いやつがいてさ』と会話が始まる。自分も建築の分野に足を踏み込んでみると、『今こんなことやっててさ』『そうなの?じゃあ今度はあいつも呼んでキャッチボールしようよ』といった具合にどんどんキャッチボールの輪が広がり変化していく中、『川原、変化球がすごい面白いよね』と言われ、今度は面白いキャッチャーが現れて、『ちょっと投げてくれよ』と。そうして和紙業界だけではなくて、さまざまな業界とのキャッチボールが始まってきたのが今、現在だと思います。そしてキャッチボールをする界隈が遠くなれば遠くなるほど、面白い人たちとも出会えて、想像していなかったさまざまなことができるようになっていく。自分のフィールドにおいては和紙を作ることから楮を植えることへ、教育やアート、文化のフィールドへと活動が広がっていくことになりました」
道具ひとつ持たずその土地で
和紙がゼロから生まれる瞬間を作りたい
今年2025年大阪・関西万博では、世界各国からの賓客が訪れる迎賓館の展示へ作家として出展。「日本全国の素材を活かし、新しい和紙を作る」というテーマのもと、北海道、山形、東京、京都、富山、岡山、沖縄、それぞれの生産地に足を運び、素材を選び、生産者と交流を経て試作。その土地の風土や魅力をあらわすように、現地で採集された素材を漉き込んだ和紙の作品を制作した。中でも、最後に制作された沖縄・石垣島での和紙づくりは、特別な体験だったという。現地の素材を漉き込むだけでなく、石垣島の海辺で和紙を漉く作業を行い、砂浜に寄せる波の形をそのまま和紙に漉き込んだ。
「沖縄で、道具ひとつ持たずに現地で一から制作した和紙は圧倒的に面白かったですね。訪れた先の場所で、何かが生まれて出来上がっていく瞬間を作りたかったのだと思います。事前の準備や道具を持参するのではなく、その土地で完全にゼロのところから和紙を作りたいと思っていたので、現地のホームセンターで和紙を漉くためのネットを買い、地元の子どもたちと博物館で開催したワークショップを通じて育てたトロロアオイを混ぜ、砂浜の波を和紙に漉き込みました。やはり自然環境から生み出されるものというのは、すごく面白いと思います。育てたものであったり、土から生まれたものがひとつの形になっていく。そこに人工的な、科学的なものはほとんど使われません。それらを通じて人間の手によって生み出されるものという愛おしさを感じています」
「沖縄の和紙は、展示会場では6メートルの作品として展示したのですが、実際に作ったのは15メートルほどの大きさなんです。富山の製作所で作る場合も、作品に応じて都度、和紙を制作する枠のサイズを変えていくのですが、それでも製作所内なのでサイズの限界はあります。ここで建物内で作るという型から一度外れてしまえば、(作れる表現も大きさも)無限だなと。ただ問題は、型の在り方や型との向き合い方。いかに守り、崩すのかというバランス感覚についても考えています。和紙でありながら、いかに和紙ではない部分を引き出せるか。北海道、十勝平野の牧草と土や、山形県の紅花、京都の抹茶を取り入れた和紙の作品も、和紙に対して取り入れる土や紅花、抹茶の分量を吟味します。和紙職人が作るから意味があるのであって、そうでない人が土を取り入れた和紙を作ると、単なるアートになってしまって、和紙としては認められなくなってしまう。そういった意味で自分は今、和紙の定義を崩すこともできるし、整えることもできる、たまたま良いポジションにいるのかなと思います」
作った楮で都市を作る
和紙を作るプロセスの先へ
さまざまな土地へ足を運び、唯一無二の和紙を作る。川原さんが万博の作品制作以前から少しづつ始めているのは、和紙の生産地に限らない土地で、和紙の原料となる楮やトロロアオイを育てる活動。そして、アートワークとしての和紙を作り、届ける活動だ。和紙を作るためのプロセスを知ってもらいたい、という思いももちろんあるが、その活動の原動力となっているのは、より多くの人たちにとって和紙という存在を身近なものにしたいという思いだ。
「和紙を作る側は『和紙って身近にあるんですよ』と一生懸命言うけれど、実はよく見たらそんなに身近には見当たらない。けれども一応、和紙と言われたら『わかるよ』とは言ってもらえる。まだ皆の中からワードとして完全に消えたわけではないんです。なので、どうしたらさまざまな人にとってより身近なものになるのかを考えたとき、不思議なものでたどり着いたのがアートとしての和紙でした。例えば1枚1000円するような和紙のランチョンマットはみんな勿体無いと言って買わないけれど、常に玄関に飾っておけるアートワークとしてであったら、10万円ほどでも買おうかなとなる人がいる。でも、ほとんどの和紙の産地や伝統工芸に携わる人たちは、消耗品などの商品開発に一生懸命になります。作品ではなくて商品を作って、とにかく回転させようとするんです。ただ、その経済理念がもう破綻している。それよりもアートワークとして国内外へどんどん出していったほうが、実は経済は回る可能性があるのではと。一回買ってしまえば、その人にとってはずっと身近な環境に和紙が置かれることになります。金額は高くなったとしても、身近なポジションにいることができる。なので、そういう立ち位置にちゃんといられるような状態を作りたいなと思っていますね」
「今、さまざまなところで和紙の原料となる楮を育てているのですが、和紙を作るのではなく、『作った楮で都市を作る』ことを考えています。自分がやっていることは実は和紙を作るプロセスの普及活動ではなく、次のプロセスなんです。和紙を作るプロセスを、従来の和紙の話からずらすことで、次の歯車を作ろうとしていて。たとえば今、デベロッパーの方々と組んで東京・原宿で行っているのが、屋上緑化や都市計画で楮を育てていくという計画です。ここでは都市計画を通じて、結果として和紙が皆の環境の中に再び入っていくことができます。これが『伝統工芸としての和紙』という文脈で環境に入ろうとすると、エリアが限定され、技法も絞られてしまいます。そして商売ベースで考えられて『1000枚くらい作らないと赤字』という話になってしまい、最後は値段などの競争で淘汰されてしまうので、淘汰されない、競争のない世界に身を置くことで生き残れるのではないかと」
伝統工芸の起源に立ち返る。
土地から土地へ、移動する和紙づくりの形
そもそも「伝統工芸」とは何か。今となっては古くからその土地に根付いた営みや技術は、その土地固有のものとして語られる。しかし、その始まりはどのようなものだったのか......?と川原さんは問いかける。一カ所に留まるのではなく自ら移動しながら、やどかりのように作業場を行く先々の土地で借り、動き続ける。他の場所でも拠点を作る、多拠点化構想も考えている。
「そもそも伝統工芸が、本来は人の技術なのに、エリアで認定されてしまっているという矛盾があると感じています。伝統工芸の『伝』は『人(にんべん)』に『云う』と書きますが、本来は「人に云って統率」していくもの。本来伝統工芸は、『人が云ったもの』をどんどん下に伝えていくものとしてあったはずが、今はもう人ではなく場所や、地域に特化している。かつての伝統工芸なんて、誰かから伝わり、誰かが持ってきたもので、たまたまその時に適した場所を選んでいただけであったはず。そしてこれだけ時代や環境が変わってしまっているのに、その地域から動けない状態で良いということは到底考えられません。次の世代に伝えていくためにもより良い場所を求めて移動していくことが重要なのではないのかと。もちろん、今ある土地に技術を残すべき人は残せば良い。開拓する人は開拓する。それぞれに役割があると思っています」
たんぽぽの種のように。
次の世代へイズムを引き継いでいく
SNSでの発信や和紙づくりのプロセスを記録する映像制作にも力を入れ、自身を「和紙に携わるエンターテイナーの一人」と語る。和紙づくりが中心にあるのではなく、中心にあるのは川原隆邦という自分自身。気が付けば和紙という大きな歯車が、川原さん自身も予想もしていなかったさまざまな景色を見せてくれたように。和紙づくりを伝える伝統工芸士としてではなく、誰かの人生を豊かにする一人として。次の世代の人たちに、届けたいものがある。
「これからはおそらく、今よりもさらにYouTubeやTikTokをはじめ、エンターテインメントの時代になっていると思っていて、自分自身も和紙に携わるエンターテイナーの一人なのだろうなと考えています。人生を映画に例えるとしたら、自分は自分の映画の主役。自分以外のさまざまな人たちの人生という映画の中では主役にならなくても、その人たちの映画に登場する、一人のエンターテイナーだと思えば、皆の人生を豊かにできるのではないかと考えているんです」
「今は和紙を作っていても、今後もっと面白いものと出会うかもしれませんし、ずっと和紙づくりだけを続けていきたいという強い考えは持っていません。そして正直、和紙業界や和紙をそのまま残すということは、時代的にもすごく難しいと思います。ただ、次の世代に『自分は川原とは違うようになりたい』というような、ひとつの問題提起や考えるきっかけになるようなことはしっかり残していきたい。だからこそ『この形、このようにやってくれ』という方法や型を押し付けるような形で残すことはしたくないですし、自分の下について蛭谷和紙をまた次に継ぐ人が増えるということではなく、ここからたんぽぽの種のようにフワッと、和紙を通じてどんどん皆のイズム(主義)の中に入っていくことができれば良いなと。先人たちから引き継いだイズムというものは、さまざま な形で残せると思っています」
EDIT+TEXT: MOE NISHIYAMA






