足のビッグデータで「歩く」を変える

人間の「歩く」や「走る」を長年にわたり研究し続けている機関がある。兵庫県にあるアシックススポーツ工学研究所では、
さまざまなシーンにおける人間の運動力学、運動生理学をリサーチし、高機能なシューズを追求してきた。

「歩く」ことは、人間の活動のなかでも基本的な営みであり、日々の生活、そしてビジネスを支える行為でもある。
近年、「MaaS」など移動にまつわる技術革新が盛り上がるが、人間はこの先も歩き続ける。
同研究所のキーパーソンに「歩く」や「走る」の未来について聞いた。

シューズの8つの機能

現代の機能性シューズは、「環境に応じて人間が進化させてきた技術の結晶」の一つだ。そして、人間が歩き続ける限り、シューズも常に進化を続ける。
アシックスのルーツは、1949年に発足した「鬼塚商会」にある。まずバスケットボールシューズの製造販売をスタートさせ、その後多くのスポーツシューズの開発、生産、販売を行ってきた。
1977年に社名を「株式会社アシックス」に変更。1985年には、社内の関連部署を集約して「アシックススポーツ工学研究所」を設立した。

「スポーツ用品は人間が使うもの。だから、製品の前にまずは人間そのものを研究しなくては、というのが創業者の理念でした」
こう話すのは、アシックススポーツ工学研究所インキュベーション機能推進部で部長を務める勝真理氏だ。
「研究所では、スポーツ時のパフォーマンスを高いレベルで引き出す製品を作り出すために、人間の身体や動きの分析をもとに、材料や構造の研究を行っています。
さらに生産技術や、製品・素材の分析評価の研究までを行うことで、高機能のシューズを生み出しています」(勝氏)

1988年にアシックスに入社。運動生理学・バイオメカニクス・人間工学を中心に、スポーツ医学や温熱生理学まで、広義のスポーツ科学および人間特性に関する研究を行う。その後、シューズやサポーター関連の開発から、人間特性データを活用したサービスによる新規ビジネス開発も経験。現在は、サービスやデジタルなどを用いた事業の開発推進を担当している。

一概にスポーツといっても、ランニングなのかサッカーなのかウォーキングなのか、競技種目によって求められるニーズは異なる。
さらに、年齢や性別によっても運動時の動作や身体の各部位にかかる負荷は変わる。
それらのデータを分析し、ターゲットごとに求められる機能を抽出することが、シューズ開発の第一歩。
要求される機能を満たす構造設計や材料開発を行い、さらには、研究所内で分析・評価試験に関する研究、生産技術に関する研究までを一貫して行う。
「アシックスは、シューズ開発に『インパクト・ガイダンス・システム(IGS)』というガイドラインを取り入れています。
これは、シューズの8つの機能であるクッション性、安定性、グリップ性、屈曲性、フィット性、耐久性、通気性、軽量性を適切に組み合わせて、パフォーマンスを向上させ快適に使用できるようにするための設計指針。
一般的なランニングシューズはおよそ40パーツで構成されていますが、それぞれに異なる機能が割り当てられています」(勝氏)

例えば、ランニングシューズとウォーキングシューズにはどちらも衝撃緩衝材を入れるが、運動動作が異なるため入れる部位が変わってくる。
「ランニングはかかとの外側で着地することが多く、ウォーキングはかかとの中央を使って着地することが多い。
また、ウォーキングの場合は足の屈曲がランニング時より大きいので、ソールがより屈曲しやすい設計になっていなくてはいけません。
こうした動きの特性に従い、パーツごとに素材や構造設計を変えることで、相反する8つの機能を高いレベルで1つのシューズに落とし込むことができるのです」(勝氏)

90万人分の足のデータを保有する

(写真:アシックススポーツ工学研究所提供)
※上記の画像は1991年当時の計測機ではなく、現在アシックスウォーキング直営店などで使用されている計測機で、「株式会社アイウェアラボラトリー社製:INFOOT USB」。

こうしたシューズ開発におけるアシックスの強みは、長年かけて集めてきた日本人の足のデータにある。その数、およそ90万人分。まさに足のビッグデータと言える。
本当にフィットする靴を作るには、平面的な寸法ではなく3次元のデータが必要だと考え、1991年に「3次元足形計測機」を、協力会社と共同開発したのだ。

「翌年のバルセロナ・オリンピックでは計測機を会場に持ち込み、選手の足のデータを大量に計測。
この時のデータが実際の製品に使われることはありませんでしたが、3次元データに着目したことがシューズ開発の可能性を広げました」(勝氏)
次に勝氏が取り組んだのは、3次元足形計測機を活用した顧客情報の収集と、得られた情報を顧客やものづくりにフィードバックし、価値ある製品を提供・製造するためのシステム開発だ。
一人ひとりのお客様にフィットしたシューズ選びを可能にするため、小売店にも計測機を置こうというアイデアだった。
だが、これは社内の猛反対に遭った。

「『そんなもの誰が営業するんだ』と言われました。そこで、自分でも営業しましたが、『場所をとる』『機械の扱いが面倒』と、反応はさっぱり(苦笑)。
ですが、シューズの未来は、商品のパーソナライズ化などプロダクトにまつわるサービスにこそ広がっていると信じていましたし、研究所としては次のビジネスへの布石となる3次元データを無料で得られるチャンスです。
幸運なことに、直営店を出すタイミングだったので、まずは直営店独自のサービスとして、3次元足形計測サービスをはじめました」(勝氏)

(写真:アシックススポーツ工学研究所提供)

結果的に、このサービスは爆発的にヒットした。折しも、この年から東京マラソンがスタート。世の中は一大ランニングブームに沸いていた。
合わないシューズで足を痛める市民ランナーも多く、それが追い風となった。
「消費者のシューズ選びの意識も変えることになった」と勝氏。
小売店もこぞって計測機を置くようになり、アシックスに膨大な量の足形データが集まる仕組みができあがったのだ。

膨大な3D足形データが生み出したシューズ

こうして集積した膨大なデータと、これまで研究開発してきたテクノロジーによって、アシックスは「名作」と呼べるシューズを数多く生み出してきた。
そうした中で、近年の代表作のひとつとして誕生したのが、ビジネスシューズ「Runwalk」である。

「コンセプトは“走れるビジネスシューズ”です。
私自身、社会人になって初めてビジネスシューズを履いたとき、『これは人が歩くための道具ではない』と感じたのを覚えています。
そこで、歩く・走るという運動特性へのアシックスの知見をビジネスシューズに落とし込むことを考えたのです」(勝氏)
まずは足へのフィット感を高めるため、3次元データを駆使してラスト(靴型)を開発した。そこで重視したのは、機能性とデザイン性だ。
デザイナーとディスカッションを重ね、足になじむ天然皮革の特性を生かした、細身で美しいフォルムが完成した。

次に、クッション性と屈曲性を兼ね備えたソールを設計。靴底には滑りにくい意匠を加えた。
さらに、ヒール部には着地時の足への負担を軽減する衝撃緩衝材「GEL」を搭載。「GEL」はやわらかな素材で、着地の際に足への衝撃を軽減してくれる。
また、歩行時の足のねじれを抑えると同時に、足裏のアーチをサポートする樹脂製のトラスティックシャンクを入れた。
モデルによっては、ランニングシューズに用いるクッション性に優れたオーソライト中敷も搭載されている。
「他社からも後追い製品が続々と誕生していますが、膨大な足形のデータから設計した日本人の足に合うラストと、ランニング&ウォーキングシューズで培ってきた技術力を結集させた『Runwalk』は、ある種の完成品だと自負しています」(勝氏)